藤倉航装 今昔

この頁では会社の概要を紹介します。

 長年在籍した会社ですが、意外と知らなった創業当時のこと、懐かしいあの頃、そして現在の状況。

 会社の歴史と現状を簡単にまとめてみました。

 ぜひお楽しみください。

  (本稿は、会の事務局をお願いしている加藤管理部長のごお手を煩わし、会社から頂いた資料を基に作成しました。)


創業の頃(戦時下)

創業の頃の佇まい

   藤倉航装(株)は昭和1410月藤倉航空工業㈱として東京都品川区五反田にて藤倉工業㈱

 (現藤倉ゴム工業㈱)から落下傘、及び航空機材料製造・販売を目的として分社し創業しました。

  写真は創業の頃の正門から会社構内を取ったものです。

  昭和53の新社屋建設までほとんど変わらりのない姿でした。

 

戦時下の荏原工場

 当時、荏原工場のほかに、日本橋、本所、大森等にも工場があり、昭和19年には社員数

 8,000名を超える規模だったようです。

 先輩からは、当時東條英機さん(陸軍大将、陸軍大臣・総理大臣等を歴任)の御嬢さんも

 勤労動員で、働いておられたという話を伺っています。

 (象徴的な意味合いもあったのかもしれません)

                       また、昭和14年から19年の間、パラシュートの累計生産数は30万個近くになったそうです。

 そう言えば、私が在籍していた時期にも陸将(昔風に言えば陸軍大将)の御嬢さんが同じ職場にいました。

 これも伝統と言えるのかも。

 体育大学卒業後入社され、大変元気が良く明るい人です、聞けば在籍していたのは2年ほどだったそうですが10年は一緒にいたような印象

 がある、存在感のある人です。

 

昭和18年製の当社落下傘

 米国スミソニアン博物館に展示されている藤倉製パラシュート、同乗者用落下傘(九二式)と表示され

 ている。

 皇紀2592年に制式化されたとすれば、昭和7年であり藤倉工業(現藤倉ゴム)時代から製造されてい

 たものと思われる。

 現品は”製造年月日:18.8.18” ”製造者:藤倉航空工業株式会社”の表示があるので、独立分社後

                    の製品です。  (前掛け型か?)

落下傘を装着した部隊

 撮影場所、時期、部隊等は不明です。

 かなりの人数なので、落下傘部隊という気がしますが?落下傘は前掛け

 式が多いようです、装帯だけ装着の人や収納袋手持ちの人もいます、

 れらの隊員さんはこれから装着するのか、または座席型や背負い型落下

 傘使用者なのか?

 詳しいことがわかる方がいらっしゃいましたら是非教えてください。

 


戦後の時代

藤産業時代の工場

 戦後航空産業はすべて廃止され、当然ながらパラシュートの需要は全くなくなりました。

 社名を「藤産業」と改め、ワイシャツ、ハンカチ等の縫製から始めて、靴下編み機やメリヤス

 編み機、染色設備の導入と、再生を図ってきました。

 写真は、メリヤス編み機か?

 機械の前、左の青年はもしかして大先輩の瓦井さん!! 間違ったらごめんなさい、何しろ私の入社はこれより20年位は後なので。 右の青年は何方かわかりません、ご存知の方教えてください。

 

朝鮮戦争による特需

 昭和25年、朝鮮戦争がはじまり当社に対して、各種パラシュートの発注がありました。

 また極東米軍の落下傘およびコンテナーの修理の要請があり、これに応じるため、福岡県

 行橋町に従業員約1000名の行橋工場を設立。

 (昭和279月~昭和3011月)

 写真は米軍人の監督下での作業状況

国内向けパラシュートの生産開始

 昭和26年の航空業界再開、並びに29年の航空自衛隊、30年の空挺部隊創

 設により、民間向け・自衛隊向けの保安傘、空挺傘(55式)が製造採用されまし

 た。

 また、このころ初のジェット戦闘機F86D、練習機T-33が採用された事に伴い、

 ジェット機用のパラシュートや航空被服の製造が始まりパラシュートの素材が絹からナ

 イロン製に変わっていったのもこのころです。

 この時期、(昭和31~41年)には、台湾やインドネシアに対して、空挺傘、物量傘

   の輸出も行っていたそうです。

   写真は左上から、民間用保安用落下傘FPB-53(ナイロン製)、54式座席型落下傘(絹製・自衛隊向け)、55式空挺傘、同降下

   中のものです。

 

60式空挺さんの登場

 昭和35年にその後の会社の代表製品となる60式空挺傘が制式化され採用されました。

 このパラシュートは、一部改良された60式空挺傘改を含め、平成11年まで約40年にわたり、陸自

 空挺団でご愛用いただく、大変なロングセラー商品となりました。

 また、この傘は大変信頼性のあるもので、制式化以来約50万回の無事故降下の記録を打ち立

 てました。(落下傘由来の事故0記録)

 このホ-ムページ背景の写真は、富士演習場で集団降下する空挺団で、使用している傘は60式

 空挺傘改です。

 

新社屋の建設

 創業以来40年に渡り使用されてきた社屋は、木造ながら、細長く柱が無い長いスペース

 を取る等、落下傘製造工場らしく工夫された特徴あるものでしたが、老朽化しつつあり、

 また時代に合わない物になってきました。

 このため、昭和53年RC構造4階建ての新社屋に建て替えて、4棟の工場と2棟の事務

 棟の機能がこのビルに統合されました。

 (何より、冷房が入ったのがうれしかった。

   旧社屋で冷房があったのは温度管理の必要な裁断工場の一部と

                                 検査課の一部だけだった)

 後に船引工場が出来、工場機能を移したのでビル内の様子は少し変りましたが、現在も建物は当時のままです。

ジェット戦闘機等の装備品

 昭和40年代に入ると航空自衛隊はF-4EJ、T-2/F-1、とジェット機の国産化を進

  めこれに対応するため、当社でも制動傘や射出座席用のパラシュートをライセンスまたは

 新規開発生産した。

 制動傘は、当時空挺傘と並んで当社の主要製品であった。

 また、これも当社の代表的なパラシュートである重物量投下機材である重物傘や関連機材

 を国産化し、生産開始したのもこの時期です。

                              (写真は、着陸後制動傘を開いて滑走路を進むF-4EJ)

宇宙関連機材

 会社のステータスシンボル的な製品として気球や観測ロケット

 の回収傘等、宇宙関連の製品があります

 現在も続いている大気球は昭和40年頃当時の東京大学宇宙

 研究所から製作依頼されたのが始まりでした。

 また、現在は生産されておりませんが、日本の観測用ロケット

 で最多打ち上げ数となったMT-135という機体の回収用パラ

 シュ-トも、この時期に製品化され、ロケット用パラシュートの

 先駆けとなりました。

 

 (写真は、平成25年北海道大樹町で放球されたBS13-08気球、 この気球

 は到達高度53.0kmを記録し、それまでの米国NASAの記録51.8kmを30

 年りに更新、世界一の高度に到達した気球となりました。  


福島工場移設・現在

船引工場移設

 平成2年、福島県田村市船引町に工場を新設。

 工場部門が長年親しんだ荏原の地から、新天地へ移ることになりました。

 当初、60人程の従業員でスタートした船引工場も、現在は約160人の

 社員が勤務しています。

 船引工場には、風洞試験設備や各種検査機器を新規導入し、新しい製

 品の開発を推進しています。 

 また、工場移転の際には、勤務地が大きく変わることもあり、残念ながら

 退職せざるを得なかった方も多数おられました。

 そんな方達とも、再会できるのもお久し振りの会で楽しみです。

 

船引工場発の新製品群

 平成10年代には工場移転に伴う諸作業も完了、地元企業として定着、確か

 な歩みを始めました。

 そのような状況の中、従来の製品を改善、進化発展した数々の新製品 

 を送り出しました。

 写真は、左上からF-2(H12年から航空自衛隊で採用された戦闘機)用の制

 傘、化学防護服、ス-パ-ソフトランディング(自立式とし、少人数で簡易に取り扱え

 様になった)、自動膨張式救命胴衣(着水すると自動的に膨張、作動索を引く

 等の操作が不要)。

696MI(12式)空挺傘の国産化

 昭和35年に制式化され長年使用された60式空挺傘(及び同改)もさすがに時代の要請に合わなくなり、平成

 12年にはフランス エアラズール社の696MIパラシュートをライセンス生産し、12式空挺傘として制式化・採用さ

 れました。

 これに伴い、60式空挺傘は平成17年11月に50万回無事故』の記録を残してその役目を終了し

 ました。

13式空挺傘の開発

 平成25年降下安定性と操縦性をより高めた13式空挺傘を新規開発し、

  陸上自衛隊で採用されました。

  13式空挺さんは、空中での安全性と高い操縦性を兼ね備え、C-1等 、

  ジェット輸送機から集団密集降下を容易にすることが出来るよう、新技

  術を取り入れたもので、防衛基盤整備協会賞受賞という栄誉を獲得しま

  した。

  藤倉航装の新しい代表製品です。

宇宙関連製品の現在

 宇宙関連製品は高度50km位までの成層圏またはこれを少し上回る高度を対象とした

 大気球やロケットの回収傘から始まりましたが、観測の多様化、深化、高度化に伴って

 当社にもさまざまな、研究開発の要請がありました。

 会社全体から見れば僅かなものですが、科学の最先端に貢献していることは誇りに思

 います

 写真は、上と左下が小惑星探査機「はやぶさ」および回収用パラシュ-ト、右下はソ-ラ-電

 力セイル実証機「イカロス」です。

 上の写真は、オーストラリアのウーメラ砂漠に着地した「はやぶさ」、左下は「はやぶさ」の地球

 への帰還時の想像図です。

 「はやぶさ」成功のニュ-スは世界的にも大変話題となり、かなり大きく報道もされたので、 

 御憶の方も多いかと思います。 

   2003年5月に内之浦から発射された「はやぶさ」は太陽を約1.5年の周期で回る直径約330m✕長さ500m小惑星「いとかわ」に

   到し、惑星表面の鉱物サンプルを採取、7年後の2010年6月に地球に帰還しました。

   イカロスはギリシャ神話から命名された、宇宙航行実験機で、太陽風(太陽から放射される光やその他宇宙線)を受けて、宇宙を航

   行する、言わば宇宙の帆船です。

   藤倉航装では、ヨットや帆船の帆に当たるセイル部分を製作しました。

   また、前述のBS13-8気球による気球の到達記録を更新したのもこの時期です。

 

   「はやぶさ2」について 

前項で「はやぶさ」について述べましたが、現在その後継機の「はやぶさ2」 が宇宙を航行中です。

「はやぶさ2」は2014123日に打ち上げられ、小惑星 ”りゅうぐう”を観測・採取したサンプルの岩石を持って、現在故郷

地球に向かっています。 

第25回お久し振りの会開催の10月25日には、地球を出発してから6年、総航行距離およそ50億Km(何分、私達の常識が

通じない宇宙でのこと、難しい事が色々あるそうですが、ざっと、このくらいという事のようです)の長旅も終盤、地からおよそ

1,700万Kmとすぐ近く(?)まで戻って来ていました。

 そして、126日午前23時ごろに、本体から分離したカプセルが藤倉航装製のパラシュートでオーストラリヤのウーメラ砂漠に

 軟着陸する予定です。          もう間もなくです。

深夜になりますが、ひょっとしたら前回の「はやぶさ」同様テレビで生中継が有るかも知れません。

深夜になりますが年末の一日、晩酌を少し増やし、夕飯のおかずを一品余計に作って成功を祝いたいものですね。 

  (フェ~~そんな時間起きていられないヨ~~)